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精神科医にとって精神療法のもつ意味

精神療法の目的はどんな精神疾患であれ、また症状の内容にかかわらず、損なわれ、うまく働かなくなっている適応機制をいかに修復するかが精神科臨床の課題である。

その目的は、複雑なように見えるが、ひとつしかない--すなわち現実適応である。

すると精神科医の行う精神療法とは
①生物学的・非生物学的視座から分け入って、②言葉だけをもって行う療法、あるいは③生物学的手段とともに言葉をもって行う療法、ということになろうか。

しかし、これだけでは不足しているものがある。それは④「見立て」という過程が包含しているものの精神療法的意義である。

「見立てる」とは ?
見立て=診断とは、症状を診断基準に当て嵌めていくことではない。人のこころは断裁されたものの寄せ集めではないのである。

本来、見立てていくことはすぐれて精神療法的営為であるし、そうでなければならない。なぜなら、見立てていく過程では、次の2つのことが生じるからである。

①見立てる過程とは、限定された空間と時間の中において、患者の中に分け入る営みなのであり、そのことは、そのつど患者と医師のこころに触れる過程、すなわち精神療法の過程でもある。

②薬物の効果は医師に対する信頼感と安心感によって高まるが、その背景に流れているものは、 すなわち精神療法的交流である。

「精神科臨床で大切なこと」
精神科臨床で大切なものとして次の 4つをあげておきたい。

①「ささいなこと」にすべてがかかっており、その積み重ねが重要。
②見立てていくことがすでに治療の一部であり、「診断」と「治療」とは切り離せない。
③たとえば、治療者の挨拶も表情も、椅子をすすめる仕種も、沈黙もため息も、処方箋を渡すタイミングも、すべて治療の一手立てとなりうる。
④自然治癒力、自己治癒力を生かし、悪くしないようにする。

「精神療法と理論」
精神療法には道筋を示すいくつもの理論があり、それに従って解釈したり治療を進めていくのであるが、肝心なことは「理論に眩まされないこと」である。

精神療法では治療が失敗したときの要因はわかりやすくても、うまくいったときの理由は理論的に説明できないことが多い。上手に子育てをした母親に向かって、「どんな理論にもとづいてやったんですか」とか「誰に訓練を受けたのですか」と説明を求める人はいないだろう。

それと同じである。
精神療法は子育てにも似て、理論よりも治療者の資質や体験に大きく負っている領域である。

「精神療法を深めるもの」
次の 3つをあげておきたい。
①適切なタイミング:精神療法は一見なんでもないようなことの積み重ねで進んでいくので、その細い導きの糸を見失わず、また山場を見逃さないようにして、適切なタイミングで介入したり技法の導入をする。
このためには患者の歩幅に合わせた同行が必要である。タイミングのズレは無効なだけでなく、むしろ治療の展開を阻害することもある。
「すべてのものには時がある」(旧約聖書)ということを忘れない。

②原則に縛られない柔軟性:精神療法には原則があり、それを守らないと道に迷い途方に暮れるばかりか沼地にも入り込む。
しかし、ときには意図的に逸脱しないと先に進めないだけではなく、せっかくの機会を失うこともある。
「原則に忠実な者ほど柔軟である」(レーニン)ということを忘れない。

③語り方:精神療法は言葉によって動き、言葉はもっとも重要なものである。
その力は何よりも治療者の語り方によって生まれる。言葉は情報伝達や事実確認の役割だけではなく、とくに精神療法においては、新たな世界を生み出すという創造的な役割をもっている。
それによって患者はいままで気づかなかった世界や自己の姿を発見したり適応の仕方を身につけていく。

たとえ辞義的には同じ意味であっても、語る内容は語り方によっており、伝わる深さも相手の心の中に描き出される世界の濃淡もちがってくる。

治療的な語り方とは、言葉が単なる音声としてではなく、肉声――ひびきやしらべ、それらによって醸し出されるしじま(沈黙)をもった言葉として治療空間に響くことである。

肉声としての言葉は深く豊かな交流を紡ぎ出し、やがて患者の中に新たな意味世界を分泌していく。サリヴァンは精神療法場面において言葉は verbalではなく vocalなものでなければならないと指摘している。

治療者は患者の言葉に聴き入る“良い耳”をもつことはいうまでもないが、それと同時に“良い声”で発することに腐心すべきである(ちなみに、認知行動療法や自律訓練法でも上手な治療者と下手な治療者とがいるが、両者の違いはその語り方にある)

「薬物療法と精神療法」
両者は相反するものではない。日常臨床では両者は相補的なもので、厳密な線引きはできない。両者の関係のいくつかをまとめてみる。

(1)薬物療法だけで軽快する場合:薬物投与だけで症状が和らぎ日常生活が問題なく過ごすことができれば、それはそれでよい。また薬で症状が軽減される可能性があるならば、そうすべきであろう。苦しみが楽にならずに、人とゆったり話せるわけがないからである。薬だけの場合でも、医師に対する信頼感や背後にある精神療法的雰囲気によって「プラセボ効果」はより高まる。

(2)薬物療法との併用がもたらすポジティブな側面:
①薬とは何よりも安心感をもたらすものと心得て投薬すれば、それはすぐれて精神療法的意義を包含している。

なぜなら、安心感がもたらされるように努力することは患者の気持ちを細やかに汲むことになるからである。安心感は薬の効果を裏打ちしている。

②薬の効果で患者とのコミュニケーションがとりやすくなり、精神療法的介入が容易になる。薬物は「言葉の土壌である身体を耕すもの」あるいは「精神療法場面における交流の地ならしをするもの」と考えればよい。

③丁寧な精神療法的介入により薬への抵抗感が軽減し、効果が出やすくなる。

④ただ治してもらうというのではなく、積極的に服薬することで治療の一端に自分が主体的に関与しているという感じをもつことができる。

⑤精神療法がうまくいっている場合、薬が主治医とのつながりの確かさの象徴となる。

(3)薬物療法との併用がもたらすネガティブな側面
①薬を処方することで主治医が自分との接触の手間を減らしていると患者が感じ、医師の側も話すのが面倒なので薬を出すという意識がある場合。

②患者の抵抗や不満を主治医側がすべて病状の悪化とのみとらえ、ただ薬を増量するような場合。

③患者の側に薬さえもらえれば他者との濃密な接触をできるだけ避けたいという意識があり、主治医もそれを容認している場合。

④患者が外でいろいろな情報を仕入れ、処方変更の主導権を事実上握っていて、主治医は患者の気に入るように処方を書くだけの場合。

「お わ り に」
このようにみてくると、精神科医にとって精神療法は心理職のそれとどのように違っているのだろうか。

その資格のもつ性質から、心理職とは自ずから違いがあるだろう。その違いは次の 3点ではないだろうか。
①身体のことも頭に入れて診ていること。

②必要に応じて薬物その他も使うことができること。

③見立てていく診断という過程にはすぐれて精神療法的内実が包含されていること。

この 3点をもって、精神科医は独自性をもち、かつ心理職の行う心理療法にも目配りしながら、 いっそう己のスキルを磨き、「精神科医らしさ」の向上に努めるべきであろう。

このことは心理職を排除するものではなく、むしろ治療的に有効な相互の協働作業となるのではないだろうか。